2011-09-23
教会の祈祷会の説教メモを載せるのを、しばらくサボってしまいました。久々で載せます。
昨晩はゼカリヤ書を開きました。来週はマラキ書を開いて9月で小預言書の学びはおしまいとして、10月からは「使徒の働き」から、パウロの生涯を学ぶことにしています ^^
イエスは何故、エルサレム入京時に派手なパフォーマンスを行ったのかの今回の考察は、我ながら気に入っています。傲慢ですね ^^;
メモの補足説明を予めしておきます。
イエス逮捕後の裁判で判事役のローマ総督は、イエスは死刑に値することは何もしていないことを知っていました。しかし、民衆が死刑を激烈に主張したため、暴動を恐れた総督は保身のためにイエスを死刑にすることにしました。暴動が起きたら統治能力がないとみなされ、総督はローマ皇帝に処分されてしまうからです。
この民衆のエネルギーを引き出すためにイエスは、自分では好まない派手なパフォーマンスを敢えて行ったと私は考えます。イエスは祭司長ら宗教指導者に扇動された民衆のエネルギーを利用して十字架に付いたのでした。
イエスは私たちを罪の奴隷状態から救い出すために、強い覚悟を持ってエルサレムに入京したのでした。
<9月22日祈祷会メモ>
『強い覚悟で十字架に向かった主』
【ゼカリヤ9:9/ヨハネ12:12-15】
ゼカリヤはハガイと同じ時代の捕囚帰還後にエルサレムの神殿再建を励ました。ハガイに比べゼカリヤ書にはメシヤに関する預言が多く記されている。ゼカリヤ9:9はイエス・キリストのエルサレム入京により成就した。イエスがろばの子に乗って入京した場面はマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの全てに記されている。
預言が成就するためとは言え、主は何故ろばの子に乗って入京したのだろうか。このような派手なパフォーマンスを、イエスは本来、好まないはずである。
そのヒントはヨハネ7章にある。イエスはこの時「内密に」エルサレムに入った。まだ十字架の時ではなかったからだ。このことから、十字架には民衆の激烈なエネルギーが必要だったことが分かる。民衆はイエスを「十字架に付けろ」と激しく叫んだ。この民衆の苛烈さはイエス入京時の熱烈な歓迎の反動である。民衆の期待が極端から極端へ大きく振れることは日本の国政選挙の結果を見てもわかる。イエスは強い覚悟でろばの子に乗り、エルサレムに入京したのだ。
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