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新年あけましておめでとうございます。
元旦の昨日、下記タイトルで小論を書きましたので、掲載します。
よろしくお願い致します。
2010年1月1日
ヨハネの福音書の驚くべき構造
S. KOJIMA
1.聖霊の時代を描きにくい福音書
ジョン・オズワルトは著書『「聖き」を生きる人々』(原題 ”Called To Be Holy” 1999)の中で、「ヨハネの福音書が他の福音書に書かれてあることに触れる場合、これは特に重要なことであると思って間違いありません。」(p.128)と述べている。その上で彼は、バプテスマのヨハネが「自分のあとから来る救い主は聖霊によってバプテスマを授ける」と語ったことが四つの福音書の全てに書かれていることを挙げ(マタイ3:11、マルコ1:8、ルカ3:16、ヨハネ1:33)、イエスがこの世に来られた最終的な目的は人々に聖霊を与えるためであったとしている。オズワルトはさらに、この目的について、「聖霊が住まうための宮をきよめるために贖いは絶対に必要でしたが、犠牲それ自体が目的ではなく、むしろ、より偉大な目的のための手段です。その目的とは、人が神ご自身によって満たされ、神の聖い歩みを進みことができるようにするという、旧約聖書の信仰者たちが一日千秋の思いで待ち望み続けてきたことです。」と述べている。
人々は、この聖霊の働きについて、もっと多くのことを知る必要があった。しかし困ったことに、イエスの生涯を記した福音書は、この聖霊の素晴らしい働きを生き生きと描くには甚だ不都合であった。なぜなら、聖霊が人々に注がれたのは、イエスが天に上げられ、地上にいなくなった後のことだったからである。それゆえマタイもマルコもこの出来事には触れず、ルカも福音書の中には記さず、「使徒の働き」という別の書物に記している。
2.ヨハネの福音書の巧妙な仕掛け
ところが第四福音書の記者ヨハネは驚くべき手法で、この聖霊の重要な働きを巧みに描き込んでいる。その手法とは、復活前のイエスの時代の出来事の中に、復活後の聖霊の時代の出来事を忍び込ませて両者を絡める、という手法である。一例を挙げれば、ヨハネ2章13〜16節の「宮きよめ」の出来事では、復活前のイエスの「実際の宮きよめ」の行動と、聖霊が住まうための復活後の「心の宮きよめ」の両方が描かれている。
このように特異なヨハネの福音書の構造の概略を上図に示す。この図は1:1から21:25の最後まで読んだ後、1:35に戻り、11:44で終了することを示す。1:35〜11:44の区間は2回通ることになる。
21章はペテロが漁に出る場面や、パンと魚を食べる場面、炭火、3度同じことを繰り返すなど、20章までの出来事と関係する事柄が書かれている。そのため、読む者は最後(21:25)まで読み終わった後で再び1章から読み返したくなる。これは、ヨハネがその効果を狙って仕込んだ巧妙な仕掛けであると私は考える。
そして2度目の1:35〜11:44は復活したイエスと現代の我々とが出会って、イエスに招かれる場面から始まる。11:44のラザロの復活の場面は、イエスを信じる我々が終わりの日によみがえることを示し、福音書はここで終わるのである。
3.本構造の持つ卓越した特長
以上のような構造を持つヨハネの福音書は、他の福音書には無いユニークな特長を持つ。
A.神の永遠性が描き込まれている
B.復活したイエスと現代の私との関係が示されている
ヨハネの福音書には創造の初めから終わりの日まで、そして、さらにはその先までもが描かれていることが図から分かる。つまり、永遠の過去から永遠の未来までのことが描かれている。これは2000年前のある時期に起こったことしか書かれていないマタイ・マルコ・ルカの福音書と大きく異なる点である。