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永遠なる神は過去・現在・未来という概念は超越した存在である。しかし、時間に縛られている我々人間にはこのことは理解しづらい。ヨハネの福音書の理解を通じて我々は、神の永遠性についての理解を増し加えることができるであろう。それは、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ること(エペソ3:19)にもつながる。
また、ヨハネの福音書には復活したイエスと我々一人一人(私)との関係が示されている。それゆえ、この関係はクリスチャンの数だけ存在する。この福音書の最後の21:25に「もしそれらをいちいち書きしるすなら、世界も、書かれた書物を入れることができまい」とあるのは、このことを指しているのかもしれない。
この復活したイエスと私とが出会ってから授かる聖霊の恵みは時間順に書かれている。これについては、次節で述べる。
4.復活したイエスと出会った者が受ける聖霊の恵み
ヨハネの福音書の記事は、2000年前のイエスが行動した時間順には書かれていない、ということが言われている。それは、復活後のイエスと我々(私)とが出会った時から受ける聖霊の恵みの順に書かれているからである。その恵みとは、概ね下記の通りである。
・復活したイエスの私個人への招き(1章)
・イエスの血(良いぶどう酒)による私の心の宮きよめ(2章)
・聖霊が私の心に入り、新しく生まれ変わる(3章)
・私が真の礼拝者となることを助けてくださる(4章)
・私が自立した信仰者となることを助けてくださる(5章)
・私を教会生活の恵みに与らせてくださる(6章)
5.不信仰な者への警告と偽預言者への警戒
7章~10章は恵みではなく、不信仰な者への警告などが書かれている。
・イエスを信じない者への警告(7,8章)
・霊的な盲人への警告(9章)
・にせ預言者への警戒(10章)
6.終わりの日に涙を流すイエス
ラザロの復活が描かれている11章は圧巻である。ラザロの復活が、終わりの日における私(イエスを信じる者)のよみがえりに置き換えられるとすれば、その裏ではイエスを信じない者たちが滅ぼされていることになる。11章には
「イエスは、…、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて」(33節)
「イエスは涙を流された」(35節)
と、尋常ならぬイエスの姿が描かれている。永遠の神であるイエスの中では、ラザロの復活と終わりの日が同時進行していたと考えれば、「霊の憤り」とは終わりの日の不信仰者への神の怒り、そして「イエスの涙」は滅ぼされた者へのイエスの悲しみと解釈できるであろう。
この福音書の記者ヨハネが、ヨハネの黙示録をも書いたことを考えれば、11章ではラザロの復活と終わりの日の裁きが同時進行していると考えても決して不思議ではない。ウイリアム・バークレーはヨハネの福音書の注解書の中で、このラザロの復活が他の3福音書に描かれていない問題の解釈に苦慮しているが、このラザロの復活の場面は終わりの日を示すのには必要不可欠であり、一方、他の3つの福音書では全体のバランスの関係から採用しなかったとの解釈もできるのではなかろうか。
7.おわりに
以上のようなヨハネの福音書の大きな構造に関する解釈が注解書に書かれていないのは不思議なことである。それゆえに未だ神学生である私がこのような大胆な主張をすることに不安も覚えるが、私としては上記の解釈の細かい点については誤りがあったとしても、全体の構造の解釈に大きな誤りはないのではないかと思っている。
この小論を読んだ方からコメントをいただければ幸いです。