朝の食卓のショート・ディボーション
2009-06-18


神学院では毎週木曜日の朝食後に、ショート・ディボーションの時間があります。食堂で、院長以下ほとんどの教職員、神学生が集っている中で、神学生が5分以内の短い話をします。1年生の間は当務はなく、2年生になってからも、4年生から順番に回っていきますので、先々週から、ようやく我々2年生の番になりました。
 けさは、いよいよ私の番です。最近、思っていることを、ちょうど5分ぐらいにまとめてみました。こちらにもアップしますので、よろしくお願いいたします。

聖書箇所: 創世記1章1, 2節

 初めに、神が天と地を創造した。
 地は茫漠として何もなかった。
 やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。

 私は最近、創世記のこの冒頭に記されている、「水」のことが非常に気になっています。神様が「光があれ」とおっしゃる前から神様と共に存在していた水とは、いったい何物なのでしょうか。創世記のこの箇所の注解書を読んでも、水についてはほとんど触れられていないので、私の好奇心はつのるばかりです。
 聖書には、水を神様に例える表現が数多くあります。例えば、「渇く」という言葉を使って、水分が人間に必要不可欠なのと同様に、神様がいなくては人間は生きていけないということを表現しています。
 また、水により私たちの体の汚れが清められるように、聖霊により私たちの罪が潔められる例えも多く使われています。
 以上の水の二つの働き、すなわち水分補給と、汚れを洗い流すという二つの働きが、水を神様に例える代表的な例だと思いますが、創世記1章2節の「神の霊が水の上を動いていた」から感じられる、神様と水との近い関係を思う時、私は水をもっともっと神様に例えても良いのではないかと思います。
 私が最近特に感じているのは、神様の御言葉と「お風呂」とが、非常に良く似ているということです。先に述べた、体がきれいになる、ということに加えて、お風呂では体が温まるということ、そして体が軽くなる、ということも、良く似ています。御言葉も心を温かくし、そして心を軽くしてくれるからです。
 そのように、御言葉によって心が軽くなり、温かくなり、そして、きれいになるところ、それが教会です。ですから私は教会を、「御言葉のお風呂屋さん」と呼びたく思います。そして、今の私の理想の牧師像は、「風呂屋の親父」です。お風呂屋の親父さんが、きれいなお湯を浴槽にたっぷりと満たして、お客さんに気持ち良くお湯に浸かってもらうように、牧師も神様の聖なる御言葉を教会の来会者にたっぷりと提供して、主の平安にどっぷりと浸かってもらいます。そして日常の疲れを取り去り、汚れを落としてもらいます。
 私は神学院に来る前には、週末にはたいてい映画館に行って、大きなスクリーンで映画を楽しむ、という生活をしていましたから、空想の世界を映像化して頭の中に思い描く、ということが比較的容易にできますが、皆さんはいかがでしょうか。
 試しに、ちょっと不謹慎かもしれませんが、どこかの教会の会堂の中がお風呂になっていることを想像してみてください。そのお風呂に入ったら、すごく気持ちが良いと思いませんか?神様の御言葉を聞きながら、お風呂に入っているような気持ちになれるなんて、素晴らしいことだと思いませんか?
 日本はクリスチャンの人口比率の低さでは、世界有数だと思いますが、お風呂の文化を大切にする国としては、日本は世界でもトップレベルだと思います。日本人がお風呂を楽しむように教会生活を楽しむようになったらいいなあ、と私は思います。
 それには、私自身が神様の御言葉をたっぷりと注ぎ出すことができる者にならなければなりません。その御用のためには私の力はまだまだ全く足りていないことを痛感します。お風呂屋の親父さんという、私の理想とする牧師像に近づけるよう、神様にお祈りしながら、努力していかなければならないと思っています。


続きを読む

[神学院]
[信仰]

コメント(全4件)


記事を書く
powered by ASAHIネット