『伝道者の書』からのメッセージ
2009-06-14


先月、深川教会の壮年会の例会で旧約聖書の『伝道者の書』3,4章について20分ぐらいの話をしました。今日行われる、今月の例会でも5,6章についても引き続き、話をすることになりました。先週、急に頼まれました ^^; 
 『伝道者の書』は読み込めば、読み込むほど味わいがあると感じています。未熟ですが、原稿をまとめたので、こちらにもアップします。

 『伝道者の書』5, 6章
                            
 きょうは先月の3,4章に引き続き、今月の5,6章もまた、私のほうでお話をさせていただくことになりました。よろしくお願いいたします。
 前回は、3章、4章を見ながら、旧約の時代の『伝道者の書』の記者が感じている人生の空しさを通じて、新約の時代を生きる私たちに与えられたイエス様の恵みの大きさを、より鮮明に感じ取ることができるのだということをお話ししました。

 さて、その、前回のこの会では私のすぐ右隣にO兄が座っておられました。そのわずか1週間後に天に召され、ほんの短いお交わりでしたが、とても寂しく思います。でも寂しくても、悲しいことではないというのが、私たち、イエス・キリストを信じて洗礼を受けた者に与えられた素晴らしい恵みです。このことを覚えて、改めてその恵みに感謝したく思います。
 私たちのこの世の人生が、残りあと何年かは神のみぞ知るですが、私たちは神の国に入ることが約束されています。これが新約の時代を生きる私たちに与えられた大きな恵みです。しかし、旧約の時代に生きた『伝道者の書』の記者は、自分の人生が残りわずかになってきた時に、自らの人生を振り返り、大きな空しさを感じています。これは一体、どういう心理でしょうか。きょうの5,6章の準備にあたり、1章から4章までを改めて読み返してみて、新たに思ったことがありますので、きょうは、まず始めにそのことからお話しさせていただきます。
 過去を振り返って「すべてが空しい」と言っている『伝道者の書』の記者も、過去に実際に事に当たっていた時には、喜びをもって何でもしていました。2章10節に「実に私の心はどんな労苦をも喜んだ」とあります。しかし、自分の人生が残り少なくなってきた時、それらがとてもつまらないものに思えてしまいました。直後の11節で「しかし、私が手がけたあらゆる事業と、そのために私が骨折った労苦とを振り返ってみると、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。」と言っています。
 昨年の10月に淀橋教会で行われた聖化大会に講師として招かれたビクター・ハミルトン先生がこんなことをおっしゃっていました。ユダヤ人が時間の中を進んで行く感覚は、ボートを漕ぐように、後ろ向きに進んで行く感覚なのだそうです。出エジプトの出来事を大切にしており、そのことを絶えず忘れないように進んでいるからのようです。私たちには未来のことは一切分かりませんし、過去のことは良く見えているわけですから、その感覚は私たちにも理解できます。
 私は、今回のメッセージの準備をしていて、この『伝道者の書』の記者も後ろ向きになって過去を見ながら、この書を記したのではないかと思いました。そうすると、一番手前に栄華を極めた自分の王様としての暮らしがあり、ずっと遠方に、自分の先祖の墓が小さく見えます。この記者の先祖たちの最期は聖書にどのように記されているでしょうか。

 アブラハムは平安な老年を迎え、長寿を全うして息絶えて死に、自分の民に加えられた(創世記25章8節)
 ヤコブは子らに命じ終わると、足を床の中に入れ、息絶えて、自分の民に加えられた。
(創世記49章33節)
 こうして、ダビデは彼の先祖たちとともに眠り、ダビデの町に葬られた。(列王記第一2章10節)
 ソロモンは彼の先祖たちとともに眠り、彼の父ダビデの町に葬られた。(列王記第一11章43節)


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[信仰]

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