朝の食卓のショート・メッセージ2
2009-11-16


前回の6月18日に続いて、2回目の5分間スピーチの担当が今週、巡ってきます。今日、その原稿ができました。
 本番は木曜日ですが、他にネタもないので、原稿をアップします。永井隆氏の著書も読み始めましたので、近々感想が書けたら良いなあと思っています。


聖書箇所:ヨハネの福音書4章24節

「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」

 いま私は男子寮の早天・晩祷の当務ではヨハネの福音書から説教をしています。アラムナイ・セミナーの前の週は、先ほどお読みしたヨハネ4:24までの4章の説教をしました。
 ヨハネの福音書の説教を始める前は、私は4章までの出来事をバラバラに捕らえていただけでした。バプテスマのヨハネの言葉、カナの婚礼、宮きよめ、ニコデモとの会話、そしてサマリヤの女との会話を、それぞれ別々の話としてしか捕らえていませんでした。
 しかし、説教のための思い巡らしを重ねて行くうちに、これらが互いに関連を持って書かれている、ということに気付き始めていました。そうした折、素晴らしいタイミングでオズワルト先生が来てくださいました。このBTCの食堂とセミナーの会場でオズワルト先生の話を何度も聞いているうちに、私の中で1章から4章までが一本の糸でつながりました。

 1章でバプテスマのヨハネが言った、イエス様による聖霊のバプテスマとはどのようなものかが、2章と3章で示されます。2章のカナの婚礼できよめの水を良いぶどう酒に変えた奇跡は、バプテスマのヨハネの水をイエス様の血に変えたことを示します。そして、2章後半の宮きよめは、私たちの心の中の宮をイエス様が、その、ご自身の血できよめてくださることを示します。
 そうしてイエス様の血によってきよめられた心に聖霊が入ると、私たちは新しく生まれるのだと、イエス様は3章のニコデモとの会話でおっしゃいます。この3章で、聖霊は風に例えられます。このように風に例えることで、真の礼拝というものは、必ずしも特定の場所に設けた神殿で行うものではない、という4章の教えへと導いて行きます。

 4章では、イエス様はサマリヤ地方を旅しておられました。
 6節に「イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた」とあります。
 なぜイエス様はそんなに疲れていたのでしょうか?
 私はこう考えます。イエス様はサマリヤ地方で、旧約の時代のイスラエルの民の不信仰の末路を様々な形で見て嘆息し、疲れ果てたのではないでしょうか。
 イエス様はこの井戸の町に来るまでに、かつてシロの町があった辺りを通って来たと思われます。シロの町にはモーセの時代に作られた神の契約の箱がヨシュアの時代に運び込まれました。しかし、神の箱はサムエルの時代に運び出されて敵地を転々とします。
 このように信仰が薄かったゆえにシロの町は滅ぼされ、そしてサマリヤもエルサレムも滅ぼされました。 これらの出来事に共通していることは、イスラエルの民が神の箱や神殿という「入れ物」にこだわり、霊である神ご自身を礼拝していなかったということです。

 イエス様の時代、民は相変わらず神殿という入れ物にこだわり、神から離れていました。
 それゆえ、イエス様は24節で「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」と言いました。
 霊とまことによる礼拝とは、どんな礼拝でしょうか?
 その答が、今回のアラムナイ・セミナーの最後に読まれたロマ書12章1節の後半に書いてあります。

「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、きよい、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」

 神様への供え物になるほどにきよくなることなど、自分の努力では到底無理ですが、神様がきよめてくださると信じれば、それは可能だ、とオズワルト先生はおっしゃいました。

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