未来をつかむ信仰
2009-10-14


藤本先生の「マルコの福音書」の授業でマルコ5章から25分の伝道説教を作るよう宿題が出ていたので、作りました。

 前回の日記「未来からの握手 〜過去に届けられた祈り〜」を例話に使いました。25分モノですから長いですが、ぜひ読んでみてください。

 「未来をつかんだ長血の女の信仰」

 聖書箇所:マルコ5:25〜34

 私たちは時の流れの中を時々刻々歩んでいますが、皆さんはこの歩みをどのようにイメージしているでしょうか。明るい未来に向かって歩んでいくイメージでしょうか。それとも、暗闇の中を進んで行くイメージでしょうか。或いは、もっと別のイメージでしょうか。ユダヤ人は、公園の池のボートを漕ぐように、後ろに向かって進んで行くイメージを持っているということが言われます。それはユダヤ人が紀元前1400年の遥か昔、モーセに率いられてエジプトの地を出た「出エジプト」の出来事を大切にしており、その過去の重要な出来事から常に目を離さないように進んでいるから、後ろ向きに進むのだと言われています。
 日本人の私たちはどうでしょうか。江戸時代前期の俳人・松尾芭蕉は『奥の細道』の書き出しで、時の流れを旅人に例えて面白い表現をしています。
「月日は百代の過客にして行き交う年もまた旅人なり」
 私は特に「行き交う」という言葉に目が留まります。去年、今年、来年と、年は来ては去り、去ってはまた来る、その年月を「行き交う旅人」と表しているところに芭蕉の温かい人間味が感じられます。すれ違う旅人ひとりひとりの人生を思い浮かべるとき、時の流れにも何か血の通った温かさのようなものがあるように感じられます。向こうからやって来る新しい年も、何だか自分を歓迎してくれているような気になります。
 しかし、最近の日本は暗いニュースが多く、時の流れに温かいものを感じる人は少ないかもしれませんね。暗闇の中を進んで行くイメージを持っている人が多いのかもしれません。日本では毎年3万人を超える人が自殺しているということが、そのことを語っているように思えます。

 今、私たち日本人は、人に助けを求めにくい社会に住んでいるのではないでしょうか。「自己責任」ということが言われ、自分が選んだ道で苦境に立たされても、自力で解決することが求められます。自分がしっかりしていなければ、生きていけないような社会です。旅の途中で倒れても、誰も介抱してくれないような社会です。
 自分のことは自分でする。これは一見、正しいことのように思えます。しかし、そもそも私たちは自分の力だけで生きていける存在でしょうか。生まれたばかりの赤ちゃんが自分の力だけで生きていくことができるでしょうか。私たちは生まれた時から既に自分以外の人からの助けを受けて生きています。そう考えると、「自分、自分」と自分を強調することは、かえって不自然なことと言えないでしょうか。毎年3万人以上の自殺者は、自分の力で何とかしなければならないと思い込んでいる社会の犠牲者と言えると思います。

 きょうの聖書箇所の長血の女はイエス様に真剣に助けを求めました。
 長血がどのような病状であったか詳細は不明ですが、出血を伴う病気であったと思われます。血の漏出がある女は汚れた者とされ、その女がすわるすべての物も汚れ、これらの物にさわる者は誰でも汚れる(レビ15:25-27)とされていました。ですから、この女が取った行動、すなわち群集の中に紛れ込む、などということは、とんでもないことです。しかし、女はそれだけ必死だったということです。12年の間わずらっていて、26節に
「これまで多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。」

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